八尾町・上新町の歴史と伝統文化

1 八尾町の町建て

寛永13年(1636年)
町建ての祖 ・・・ 米屋少兵衛が加賀藩に願い出る

 

2 上新町の町建て


元禄3年(1690年:八尾町町建ての54年後)
町建ての祖 ・・・ 信濃屋喜右衛門
※ 信濃屋喜右衛門は、前田家の雛人形が払い下げられる風聞を聞き、その人形のもらい受けを申し出た。以来、家宝として保存していたものが、曳山の氏神の在原業平と供女の人形である。(加賀藩は、菅原道真を信奉していたが、業平はその親友であったとされている。)
人形の作者は、大仏師治郎兵衛(前田正甫に仕えた仏師)である。

 

3 八尾の産業

(1) 養蚕
八尾は富山藩の「お納戸」といわれて、その財政を担ってきた。八尾の豊かさは、蚕種業によって、江戸後期(天明年間には、約70の製糸家が軒を連ねた)から、明治初期の時代に築かれた。蚕種業を支えた人物は、橋爪治郎作(ソシエ橋爪の先祖)であった。史実によれば、養蚕業は八尾の町建ての頃からあった。
(2) 製紙
平安から、室町時代にかけて、八尾の山間部の仁歩の紙谷家が中心となって紙を製造していたという記録が残っている。後年、売薬袋として八尾の和紙が活用されてきた。現在、その伝統を「越中紙社」が継承しており、隣の桂樹社では、和紙を使った商品が販売されている。また、和紙文庫にも多くの観光客が訪れる。
(3) 骨董業
繭山松太郎(繭山龍泉堂)や、その弟子広田松繁(壺中居)は、八尾出身の骨董業者である。彼らは単に骨董業者としてではなく、明治、大正期の中国など海外を周りながら、その産業や経済の状況を故郷に伝えてくれていた。

 
 

4 曳山の歴史

八尾八幡社の祭礼である曳山祭りは、寛保元年(1741年)の在原業平の人形を乗せた花車に始まったと記録にある。八幡社では、芝居も披露されていた。
今の形の曳山となったのは、天保7年(1836年)頃で、三国志の英雄関羽の大彫(曳山の1階うしろ、作者:田村七蔵→井波彫刻の名人)、「龍神が、武内宿禰に乾珠・満珠を奉る図」神功皇后が朝鮮に渡るとき、航海の安全のため、龍神が参謀の武内宿禰に宝玉を献上した故事を表した見越【けんけし】(曳山の2階うしろ)ができあがった。
天保14年(1843年)には、書道の王羲之の曲水の宴を題材とした「蘭亭の図」の八枚彫(1階上部の前後左右、作者:田村理八→井波彫刻の名人)が加わった。
屋根の飾り物の鳳凰は、中国荘氏の内編に出てくる鵬に由来するもので、無為自然の思想で、俗塵を超え、町民にとって自由な生き方の象徴となっている。町外の曳山の彫刻にも、中国の思想、故事に由来するものがたくさんある。

5 おわら風の盆

その起こりは、町建てに由来するものだが、今のかたちになった歴史は新しい。町衆自身は、おわら自身が形を変える可能性をもつ伝統文化と考えている。
一方で「風の盆」という行事が広く知られるようになった契機は、俳句の世界で季語と認められた大正14年(1925年)10月で、その後、「おわら風の盆」として開催するようになったのは、昭和30年からである。
踊りの歴史を辿ると、旧踊り(豊年踊り)が整えられたのは、大正2年(1913年)の頃で、小杉放庵の八尾四季の唄に合わせて、昭和3年(1928年)男女の新踊りを作ったのは、若柳流家元の若柳吉三郎である。ここに、豊年踊りによる「群れる:練り廻るおわら」から、新踊りによる「見せるおわら」への変遷があった。放庵と吉三郎の二人を出会わせ、新しいおわらとした、おわら保存会会長の川崎順二氏の功績には、絶大なものがあり、それ故、彼は「おわら中興の祖」といわれている。昭和初期から彼が中心となって招いた野口雨情(童謡詩人:シャボン玉、七つの子、赤い靴、こがね虫等)、藤原義江(テノール歌手:浅草オペラ)などの文人墨客は、おわらを全国的な民謡へと押し上げた。
昭和27年の日本民謡全国協会第3回大会でおわら節が優勝したことを端緒に、28年の第4回東京大会においても、唄、踊りの部でともに全国第1位となり、その後、無鑑査格となって、日本を代表する民謡として認められるようになった。昭和40年には、第18回NHK全国素人のど自慢大会で、魚津市の竹氏修さんが全国1位に入賞したことも、おわらの名声を、全国に広めることに繋がった。
本来、聞名寺や専能寺境内で行われていた風の盆が、昭和36年からは、八尾小学校グランドの特設ステージを演舞場として行われるようになった。
「おわら」の起源は、その歌詞から、「お笑い」にあるとか、豊作の願いに由来する「大藁」にあるとか、全国にある「小原」にあるとか、京の貴族の「おわら姫」に由来するとか、様々あるが、明確な文献があるわけでもなく、いずれも、明治以降の符合の説で、どれをも吹聴、尊重、採択すべきではないと八尾町史には記されている。
近年、言語学の研究者の間方徳松さんが、「おわら」は、アイヌ語の「とてもきれい・一番よい」に由来し、合いの手の「こらしょっと」の「こら」にも、アイヌ語の「おまえ様」という意味があると発表された。
八尾町史では、むしろ、その起源が不明であることの良さが記され、不明であることこそ、おわらの伝統であるとしている。
おわらは草深く、雪深い八尾の、風の声、水の音、虫の声の中に生まれ、育った八尾人の中に伝承されてきた自由の賛歌、自然の賛歌であり、少子高齢化の中、世界中の多くの人に支えられて、育てられていく民謡であると認識している。